名前は、まだない。

you can ( not ) redo.

会話のキャッチボール

「(入店しているので)ご注文よろしいですか?」

に対して

「(友達迎えに来ただけで)すぐに出ていくので大丈夫です!」

という返答の噛み合わなさ。

 

20億光年の隔たりを感じた。

 

挽歌

百貨店の死は、時代の流れなのかもしれない。

僕らの中の「特別」な時間を与えてくれる場所としての百貨店は、もう必要とされていないのだろう。

 

 

松戸伊勢丹が、閉店した。
この街の誇りと言ってもよいくらいだった。


伊勢丹には思い出がたくさんある。

七五三のお祝いの会食を、築地植むらでやったことも。米寿の祝いを銀座アスターで開いたことも。誕生日のケーキを地下のアンテノールで買ったことも。アンデルセンのミニバラを英会話塾の帰りに買ってもらったことも。うれしいことがあった日に、ちょっと奮発してカップにアイス2つ乗っけてもらったことも。

 

挙げればキリがないが、そういう自分の中での「特別」を、ささやかながら祝い続けてきたのが僕の中の伊勢丹像だ。

 

それが終わる。

 

 

結果的には、市民はもう「特別」を求めていなかった。

 

伊勢丹の写真室で写真を撮ってもらうことの特別感。自分が愛されているということの確認。

百貨店の喪失は、愛の喪失といってもいいかもしれない。

 

そういうお話でした。

跡地は、きっと住友不動産あたりが買い取ってタワーマンションにしてしまうと思うので、寂しくなりますね。

 

 

 

 フランク・シナトラ的に言うならば

「倹約を美徳とするならば、愛しい時間は何になる…?」

何もかも、あの机と椅子がセットになったモノが悪い。

f:id:blackrock727:20180201230722j:plain

何なんだこの机と椅子がセットになったやつ。最悪だろ。

 

前の奴の貧乏ゆすりが後ろに座ってるこっちまで響いてくるし。

 

しかも動かせないし。

 

これこそが大学の自由を剥奪している根源だろ。


空間デザインとして最悪じゃないですか? 机と椅子が動かせないって。

これじゃあコミュニケーションの向きが教室前方から後方に向けての一方向になって、活発な議論とかできないよ。

 


たぶん小中高の最大の強みはここにある。

 

つまり「机と椅子が分離した状態で与えられて、かつ自由にそれを移動させることができる」こと。

 

大学とかで目指されるシティズンシップだとか教養教育だとか、そういうものの始まりというか第一歩は他者との対話や議論が必要だ。

 

つまりは双方向的な意思伝達が必要となってくる。

話し合いの場としては、お互いが机を突き合わせて向き合えるというのが空間デザインとしては最適じゃないだろうか。資料も置けるし。

 

小学校の授業とかで「みんなと話し合ってみましょう」と言われたときに自分の机と椅子を動かして班の形にしたと思う。

それって人類が長い歴史をかけて考えてきた対話の形の中で(今のところ)最も優れた形であるのは間違いないと思う。初等教育の中に組み込まれるくらいだし。国語とか算数とかと同レベルで重要な気づきを与えているのではないだろうか。

 

この小学校から綿々と受け継がれてきた班の形というのが、大学になって突然消滅してしまうのはなぜなのだろうか。検討の余地はありそうだ。ちなみに1970年代にはすでにあったという。父親談。

 

双方向の意思伝達をするときというのは、お互い向き合うことが一番伝わる度合いとしては強いというのはきっと先行の研究であきらかになってるはず。知らんけど。僕はそう信じてるけど。

 

しかしこの机をよく見てほしい。横の人と話す分にはいいけど、後ろの人と話すには自分が相手に対して垂直方向に座らないといけないのだ。会話のキャッチボールが成立しづらいったらありゃしない。最悪だ。聞く耳半分にもなるだろう。

言うならば、ピッチャーは振りかぶって第1球をキャッチャーに向かって投げなければいけないのに一塁に向かって思いっきり牽制球を投げてるみたいなもんだ。違うか。

 

にしても大学の授業で求められる活発な議論はこの机じゃちょっと厳しそうだ。

カルチェラタンもどこへやらといった感じだ。

 

学園祭にしたって、こんだけ可動不可な机の教室ばっかりじゃ、やれることが限られてきちゃうと思う。

 

もちろんすべての教室がこうというわけではない。きちんと可動式の机と椅子が整備されている教室もある。

都心の大学においては土地も狭く、どうしても大人数を裁かないといけない方法としてこの方法は至って合理的な配置だ。

 

ただ、自由の学府を謳っておいて、ゼミ教育が早期からやってることをウリにする大学ならもう少し机と椅子を自由に動かせる教室があった方がいいんじゃないという話。

あとは10号館の教室は足音がめちゃめちゃ響くのどうにかしてもらいたい。

 

 

お風呂上がりの殴り書きなのでご容赦。

 

 

タバコの日


f:id:blackrock727:20180114204425j:image
大人になるとは恰好良くタバコが吸えることと見つけたり。

 

新世紀エヴァンゲリオンに出てくる加持リョウジという男はとにかくカッコイイ。

身長が高く、シャツは少し崩して、そしてタバコを吹かす。

 

「これがいわゆる大人なのか」と幼心に深く刻まれた覚えがある。

 

君の名は。

昔から、名前を覚えることは得意なことだった。

例えば電車の車両の名前だったり、国の名前だったり。その名称を覚えること自体は単なる雑学の範疇にとどまるのかもしれないが、それをすることで子供ながらにアイデンティティを見出していた頃があった。

 

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

「お前、名前は?」

「山田です」

「それは知っている、私は君の名前を聞いているんだ」

 

といって見事にフルネームを言わせるという田中角栄の有名なエピソードがある。彼も名前を覚えるのは得意だった。

就寝前には政官要覧をじっくりと眺め、以て官僚を掌握せしめた人物だ。

 

 

人の名前を憶えていることは、憶えられている側の立場からしたらどうなのだろうとこの話から考えたことがあった。

 

結論としては、そこにはある種の感動と、承認欲求の充足があるのではないかという考えに至った。

 

個人の経験則でしかない。

名前を呼ばれることにはその関係の中において他者にしっかりと記憶されうる存在であったということに対する感動、それがひいては承認欲求を満たす要因になりうること。

 

マズローの欲求階層構造においては社会的欲求が満たされた状態とでも言おうか。

 

角栄はこの承認欲求を利用して、更なる貢献へ(そして昇進へ)とベクトルを向けさせることで官僚を掌握したのではないかとぼんやりと考えたことがある。

 

 

そういうことを考えていくうちに、人の名前を憶えておくことの重要性というのをうすぼんやりと実感したのである。

 

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・ー

ふとそんなことを成人式の最中に思い出した。

それだけ。

 

「俺のこと覚えてる?」って友達が話しかけてきたときに、それを言わなきゃいけない相手のことを考えたときに少し胸が苦しくなった。

 

不安からくる忘れられてないかの確認は、忘れないでの脅迫に思えた。