名前は、まだない。

you can ( not ) redo.

夏の災厄

向精神薬とか飲んでたりする?」

 

およそ全うな人間ならば投げかけるはずもない言葉を平気で投げかけてきた彼に対して心から驚いてしまったし、同時にそんなことを言われてとても悲しくなった。

 

 

-------------------

 

◆一言あればすべて変わると思ってる。でもできない。

 

社会に出て人間関係に困ったことがない人はいないと思うが、例に漏れず僕もまたバイト先のある男性との関係にほとほと困り果てている。

要するに、そりが合わないのだ。

 

彼はとてもプライドが高いのか何なのかよく分からないが、自分が決めたテリトリーを侵されると少し腹を立てた様子でこちらを見てくる。そのくせ少し遠回しに指示を出してくる。ちょっと面倒くさいやつである。

僕はミャンマーの地雷原を歩かされる子供のごとく、常に怯えながら何とか地雷を踏まないように探り探り、あっぷあっぷになりながらシフト被りの1時間半を過ごす。

 

僕が働く喫茶店は、店舗構造の都合上洗い場とコンロの位置が非常に近く、珈琲を作る作業と洗い物の作業を別々の人が担当するということが少し難しかったりする。

離れた位置にトースターと製氷機があるため、午後シフトの人間は必然的にパン作りやアイス類のドリンクの提供がメインになってしまう。

 

そして事の発端はまさに午後シフトに入った時だった。

 

彼「ブレンドと継ぎ玉(継ぎ玉とは玉子トースト用に乗せるように作るゆで卵とマヨネーズを和えたもの)が少ないんだよね。(だからブレンドの粉を取ってきて継ぎ玉を作ってよ)」

僕「そうなんですね(1時までは持ちそうだし彼が休憩入ってから作ればいいや)」

 

という会話。明らかにどちらも一言足らない。これに関しては僕にも悪い所があったと思う。

 

そんな感じなので僕はその後注文の入ったアイスコーヒーの提供やパン作りをしていたのだが、痺れを切らしたのか、どうしてさっき言ったのに言われたことをやらないのかと責めてきた。おぉ怖い怖い。

 

こういうタイプは言い返すと面倒くさい、否、もう話すのも面倒なので話を聞き流しながらやることを済ませていく。

 

というか作って欲しいなら作って欲しいなりにもう一言欲しいし、何ならゆで卵の入った雪平を、茹でた後に僕から離れたコンロの近くに持っていかないで僕の近くにある小さな手洗い場に氷で〆たまま置いておいて欲しい。そういうとこだぞ、マジで。

 

そしてまた卵の殻が剥きづらいったらありゃしない。僕より長く働いているのにどうして卵の一つも上手に茹でられないんだ。精神的に向上心のない奴はバカだって夏目大先生も言ってたじゃないか。

 

 1時過ぎ、彼が30分の休憩に入る。彼には一つ特性があって、皿などの洗い物を溜めたまま休憩に入る。そのため休憩後は自分が真っ先に溜まりにたまった洗い物を洗い排水溝をきれいにして少なくなったまま補充もしない(させてくれない、がどちらかというと正しい。僕が触ろうものなら「珈琲は俺がやるから」と言う。ばかやろう少なくなったままだったら煮詰まってまずくなるだろ。)珈琲を補充して…とあらゆるものの補充作業や接客、パン作り、トースター掃除を行う。

トースターは早めに下のトレイを掃除しないと焦げ付いて締めの作業の時に洗いが大変になるので、なるべくこのタイミングで行いたいと思っている。これもまた「別に今じゃなくていいでしょ、早く元に戻して。」って怒られたけど。

 

あくまで主観的な話だからどうしても誇張していると思われそうだが、毎回彼とシフトに入るたびにこのような作業を行っているのである。

 

 

◆サービス業とは?

珈琲1杯220円の店にサービスを期待し過ぎるのも酷なものだが、それでも客と店という関係性の中で最低限度のサービス精神みたいなのはあってしかるべきだと考える。

 

最低限カウンターの上に置かれた皿は見えないようにどかす。その上水滴があったら台ふきで拭く。客が帰ったら使ったテーブルを綺麗に拭いて次の人がすぐ座れるようにする。などなど、一つ一つはそこまでの手間ではないし、それをやっているだけでも来てくれる客的には、少なくともマイナスな印象にはならないはずだと思っている。

 

しかし彼は恐らくサービス精神を持ち合わせておらず、カウンターに皿がたまっていようが、水に濡れていようがお構いなしであり、テーブルを拭く役割を担っているであろう従業員の立場を忘れたのか、客が自主的に拭こうとしたらそれを止めることもなくやらせてしまう。確実に接客サービス業に向いていない。

客は金を払って注文した商品を受け取る権利を得る。従業員は受け取った代金によって生じた商品の引き渡し義務を履行する。それが済めばそれまでであり、そこから先は自分の範疇ではないと考えてしまうのだろう。

 

ここまでいろいろ書いていることの問題の根幹は、サービス業における彼と僕との立ち位置の違いが生む軋轢なのだ。

 

 彼の世界ではきっと彼が世界のすべてで、自分さえよければ他が汚かろうが珈琲がまずかろうがどうでもよく(現に彼は洗い物の度にゴム手袋をつけて洗う潔癖症(笑))、給料以上の動きは極力したくないため、後から入ってきた(立場の弱い)人を顎で使うことで何とかシフトの時間を乗り切ろうとしている。

 

逆に僕は、店をどう回すか、入ってきた客がまず目にするカウンターや使う食器をなるべく綺麗にしておくとか、なるべく美味しい珈琲・トーストを作り、来てくれた客が店を出るまで印象を落とすことなく過ごせるかということであり、いわば「客ファースト」、来る客が全てであり、そのために自分はどう動くかということに全てが収斂されている。

 

事の発端である補充の問題も、ストックがあるなら客のフローが落ち着いた時にやればよいため大した問題ではなく、忙しい12時台に処理しようとする問題ではない(と僕は思っている)。

 

だから彼のテリトリー内で彼の意図したとおりに動いてくれない僕の存在は非常に目障りで、目の上のたん瘤なわけだ。

それにもし動いてくれないのならば最初からもっと明確に指示を出してくれればいいと思う。そして「どうして○○をやってくれないの」という言い方にも彼のサービス精神の無さが出ている。もしやってほしいなら(すごい上から目線になってしまったけど)「××な事情なので○○してもらってもいいですか」という、そういう頼みの表現一つで「それじゃあすぐやらないとな」というインセンティブが生まれるはずだ。

 

同じバイトにいる院生の女の子やパートのおばちゃんとはこういうコミュニケーションが普通に取れる。そしてこちらも何の不満もなく動けるし(向こうがどう思っているのかは分からないけど)そんなにバチバチとした雰囲気で店を切り盛りする必要もなくなると思うのだがどうだろうか。

 

 

◆そして冒頭へ…。

彼にとって理解不能な僕の動きが、きっとある疑問へとたどり着いたのだろう。そして冒頭の問いが発された。

向精神薬について僕も詳しい知識がないのであまり正確なことが言えないが、よく聞く薬の名前としては「デパス」や「コンサータ」といった薬だろう。聞いたことがある人、あるいは実際服用している人もいるかもしれない。

そして彼が念頭において発した向精神薬は、恐らく「コンサータ」の方だろう。主にADHD(注意欠陥・多動性障害)の治療のために使われる薬だ。

 

大人のためのADHDサイト(ADHDとは?|どんな症状なの?|大人のためのADHDサイト)によれば、「多動性」「衝動性」「不注意」の3つに症状が分類されており、彼は僕の行動のうち、「仕事のケアレスミスをしてしまう」「興味のあることには集中しすぎてしまい、切り替えが難しい」「仕事や作業を順序立てて行うことが苦手」といった症状に当てはまると思ってそういう発言をしたのだろう。もしかしたら本当に自分にそういう症状があって、治療をしなければならないという可能性も出てくる。しかし今まで生きてきて親類縁者からもそのような症状の疑いがあると言われたことは無く、ましてやそのような兆候から精神科などの然る医療機関で診察を受けた覚えもない。もしかしたらを言ったらキリがないが、その時急に発症をしたのかもしれない。

 

だが、ここまで何も言われずに育ってきて、いきなりそんな症状が発現するとも思えない。

それなのに冒頭のようなことを言われたら、人は誰だって悲しい気持ちになる。少なくともいい気分になる人はいないだろう。それに、言い方も問題があると思う。お得意の少し遠回しな表現はどうしたものだろうか。もし症状があることを知らなくてその人に聞くにしたって「向精神薬飲んでたりする?」はないでしょう。僕もうまく言えるかわからないし、恐らく言わないとも思うが、もし言うとしても「注意散漫だねって言われたことあったりする?」(考えてこれもどうかと思うが)とか、何かもう少しオブラートに包んだ言い方ができたはずだと思う。

デリカシーがないというか、とにかく残念だったし、悲しい気持ちになった。

 

◆おわりに

別に何か結論を出したいとか、そういうわけでもない。ただこういうことがあって、こういう気持ちになりましたという主観的な話。読んでくれて、これは明らかに僕の方が間違ってるとか、なんか言ってること矛盾してない? とかあると思う。

 

中学の時の部活の顧問が、「誰にも何も言ってもらえなくなったら、その時が人としての終わりだからな」と声をかけてきたことがある。どのタイミングでその人が言ったのかは忘れてしまったが、その言葉だけははっきりと覚えている。

客がいる前で言い争いになるのは面倒くさいし、何より客の立場からすればそんなしょうもない茶番を見せられながら飲む珈琲は絶対に美味しくない。もしかしたら2度と来たくないと思われるかもしれない。

だからその場では言えない。言いたいけど。でもこの1時間半に起こった出来事で、彼が社会でうまくやっていくことができなそうだなとちょっと思った。(そんなことはないんだと思う。きっとどこかでやっていけるはず。)

それに「言い方気を付けた方がいいよ」とか、「こうしたら動いてもらえるよ」とか何かしらのことを言われてこなかったのかもしれないと思った。あるいは自己反省して気づくとか。

何かしらを言ってもらえるうちが華ですな。お互い気をつけましょうね。

 

おわり。