書くことの意義
何でこうやって書くのか、言葉を残すのか、よく分からなくなった時期があった。
大したことを書ける訳でもない。そして影響力がある訳でもないから書いたところで色んな人に読んで貰える訳でもない(数少ない読者である画面の向こうのあなた、ありがとう)。
そもそも文章構成下手くそマンで、オチのある話とか書けない。面白い体験もない。
ないない尽くしで八方塞がりになって、こりゃもうどうすりゃいいんだと、変に悩んでいた。
そんな時にたまたま読んだのが『王とサーカス』という本だった。作者は米澤穂信さん。ミステリ作家で、アニメにもなった『氷菓』やドラマ化もした『満願』など数々の有名作を著している。
簡単なあらすじ。
主人公は大刀洗万智という、新聞社からフリーライターに転向した女性。月刊雑誌の取材の前乗りでネパールにいた所、国王が殺害されてしまう。当該事件について急遽取材を敢行するも、極秘でインタビューした軍幹部が何者かによって殺害される。遺体の背中には刃物で刻まれたと見られる文字が。何故彼は殺されねばならなかったのか。そして取材の末に彼女が辿り着いた悲しい真実とは…。
こんなんだったかな。
その大刀洗さんも、取材しながら自分が書く意義みたいなものはあるんだろうかと悩むわけですよ。事実を伝えるだけならCNNのラジオの方が早く伝わるし、そもそもこれを書いたところで読者は興味を持って読んでくれるのだろうかっていうのもある。
取材中インタビューした軍幹部にも、「この国で起きた悲しみがお前達の国で娯楽として消費されるのは真っ平御免だ。この国をサーカスにするつもりは二度とない。」(うろ覚え)って言われる始末。
そんなんで落ち込んでた時に泊まってたロッジにいる日本人の坊さんに、釈迦の話も交えてちょっと諭されるの。それがまたちょっといい話。
お釈迦様は悟りを開いたはいいけれど、それを広めようとはしなかった。もしかしたら自分が説いた教えが曲解されて自分の意図とは裏腹な結果が現れるかもしれないし、それを訂正する苦労を背負いたくないと。そこにブラフマー(梵天)が現れて、必死に衆生へ説くように訴える。釈迦も渋々この訴えに応え、衆生に説いて回った。
坊さん曰く、現在の仏教を振り返ると初期仏教とはだいぶ違っているらしい。釈迦にすれば、ほらみたことかと言いたくなるような話である。
だけどその坊さんは、梵天の説得は無駄ではなかった、と。そう考えるべきではないかと言う。
我々は完成を求めている。詩であれ絵であれ教えであれ、究極の完成が無い以上そのためにピースを当てこみ続けるべきであり、釈迦の教えは宗教哲学における完成に大きく近づくようなピースを嵌めた。それ故に梵天の説得は無駄ではなかったのではないかと解釈する。
僕もここ読んでめちゃくちゃ感心した。やっぱ坊さんはすごい。
自分が書くことに何の意義があるのか分からないけど、書くことで何かのピースをはめ込んでいる。多様性を持たせるということとはまた少し違うんだろうけど。
この話を読んで以来、また少し書こうかなという気になってきた。読んでくれるかわからないけど書くことで、何かしらの真理の一側面を埋める働きが出来たのであればそれはそれでいいなという気になれた。
何か書くこと、描くこと、そういうことでちょっとモヤっとしてる人がいたら(中々いないと思いますが)読んでみることをオススメします。話自体も伏線に富んでて面白いです。これを読んだら主人公である大刀洗のもう少し若い時の話『さよなら妖精』や新聞記者時代の話『真実の10メートル手前』を読んでみてください。ゆくゆくは『氷菓』や『愚者のエンドロール』など〈古典部〉シリーズを読んでくれると嬉しいです。