名前は、まだない。

you can ( not ) redo.

人生の残滓

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3期決定おめでたい!!



いつだって頭をよぎるよ。やってもダメかもって。叶わないかもって。こんなに練習して、結果が出なかったらどうしようって。(中略)でも私は、頑張れば何かがあるって信じてる。 

ー『響け! ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』 黄前久美子の科白より

 

『響け! ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』を観た。

まずはちょっとだけ、1月前に観たおぼろげな記憶を基に感想を述べたいと思う。

 

観ていない人もいると思うので簡単な時系列だけ紹介すると、2期終了後の続編である。小笠原晴香部長ら3年生が卒業し、進級した旧1・2年生勢と新しく入ってきた新1年生と共に全国大会金賞を目指している。

 

相変わらず心の抉りあいをよろしくやっているなという感じで、鑑賞しながらゲーゲーと吐いていた。

吹奏楽部という、所属部員自体は多いもののコンクールになればある程度の人数が絞られて脱落者が生産される実力主義な仕組みと、先輩後輩関係を基にしたヒエラルキー構造(これらは吹部に限らずメジャーな運動部全体にも共通するが)とが複雑に絡み合うことで、人間と人間の関係が非常によろしくないことになってしまう。

 

特に新1年生として入ってきた久石奏(低音パート・ユーフォニアム担当)はそこらへんの人間関係を達観しつつ、その実腹の中にはドス黒い澱が溜まっており、黄前久美子以上にドスの効いた呪詛を吐くために、見ているこちらとしては非常に心臓に悪い。彼女のせいで心筋梗塞にでもなったらどうしてくれようか。

 

(以下そこそこネタバレ有?)

 

さて、そんな彼女だが、コンクールメンバーのオーディションで夏紀先輩に忖度をし、実力を十全に発揮しない演奏をしてしまう。

なぜそんなことをしたのか。その原因には、中学生時代に若輩ながら3年生の先輩を押しのけてコンクールメンバーに選ばれたことがあげられている。客観的にみれば、演奏技術においては彼女が上であり、選ばれたのは当然と言えば当然だ。

迎えた市のコンクールでは銀賞(だったはず…おぼろげな記憶…)という残念な結果に終わる。そのせいで(?)、彼女がメンバーに選ばれたことにより3年生の先輩の「思い出作り」ができなかったと周囲の人間が嘆いた。その言葉は呪いとして彼女の心に強く残り続け、結果的に13,4の中学生に周囲の空気を読んで身を引いてしまう忖度癖というか、ゆがんだ精神が育まれた。あれ…なんか某あすか先輩も同じようなこと言ってたな…。

個人的にはここの描き方が「何が正しいのか」より「みんなが納得できるか」がとてもポスト・トゥルース的で非常に良かったと思っている。いつだっていじめはこのポストトゥルースな空気感から始まり、正しさという評価軸がぶち壊れてしまうことで拍車がかかってしまうのだ。

 

だが、実力主義の北宇治高等学校吹奏楽部において、オーディションでの忖度は滝先生着任以降ご法度である。

高校入学と同時に始めた夏紀先輩のユーフォニアムと中学からやっている久石奏のそれを比べたら、長くやっていて且つとりあえずメンバー選出経験のある久石に一日の長があるのは誰しもわかっているはず。

もちろん夏紀先輩は昨年も同様の経験(黄前久美子による下級生からの突き上げ)があっただけに今年は必死であり、自分の実力で勝ち取りたい。

しかしそこを遠慮されて譲られて(しかも目の前で堂々と遠慮されているのを披歴されて)勝ち取った椅子に、果たして価値を見出せるかといったら、答えはNOであろう。

 

そこで久石奏は問う。「何のために頑張るんですか」、そもそも「頑張るってなんなんですか」と。

 

自身のこれまでの経験と重ねながら、また同じ低音パートでチューバ担当の加藤葉月がコンクールレベルには到達しえないと薄々分かっていながらそれでも日々コンクールに向けて必死に練習する姿とを重ねながら、それでも頑張る理由とは何かを黄前久美子に問う。

 

<頑張るとは/何のために頑張るのか>

 そこで問われた黄前は冒頭の科白を発する。

すごい。すごいね黒沢ともよさんは。さすが演劇畑の子役上がりというか。2期のあすか先輩とのやり取りの時も鬼気迫る演技であったが、それにも引けを取らないというか、むしろ様々な人間関係の濁流に翻弄された経験を持って進級し、さらに後輩の世話係になって幾分か責任が増しただけに、訴えかける語気がこれまで以上に強まっている。そこを演技の内にひじり出せる力がある声優さんであることを今回強く強く実感した。今までも実感していたが…。

 

 

 ここまでは作品の振り返りとちょっとした感想だったが、ここからが本題である。

この久石奏が投げかけた「頑張るとは何か」という問いは、就職戦線にいる/いた我々大学生にも深く深く突き刺さる。

 

 

 

 その問いに答えるとするならば、ひとつにこれは「逃げずに向き合う」ことではないかと思う。

もちろん、個々人の目標に向かって日々研鑽を積むような、ある意味清らかとされるような努力を頑張りと呼ぶこともあろう。がしかし、人生そんな清らかさだけで出来ているわけはない。もっとこうドロドロに煮詰まったような、青春と泥だらけになってまで取っ組み合いっこをして勝ち得た何か、得られなかった何か、あるいはそれらの過程すべてを「頑張り」と呼んでもよいのではないだろうか。 

あくまでこれは自分としての「頑張りとは/何のために頑張るのか」の答えである。みんな頑張ってるんだからお前も頑張れみたいな、日本古来の耐乏の美徳に高尚な価値を見出したいわけではない。

 

星野道夫は自身の著書の中でこう話している。

夢にはいつか終わりが来る。
夢の途中で倒れたとしても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまったかけがえのないその時間である。

ーMichio's Nothern Dreams<1> オーロラの彼方へ から

取っ組み合って、向かい合ってたどり着いた結果何も残らなかったとしても、そこで過ごしてきた時間と記憶だけは残る。

 

久石奏においては、成果とともにその過程までもが無慈悲に否定されてしまったが故に、頑張ることの意義を見失っていた。

(余談になるが、この間のシンデレラガールズ総選挙で第3位に選ばれた夢見りあむは「チョロいなオタク!! 僕頑張ったか!? 努力なんてムダムダの無じゃん!? アイドルってなんなんだよぅ!!」とのコメントを残している。)

 「逃げても良い」という言説が人口に膾炙して久しいが、外野からの言葉は所詮外野でしかなく、誰も責任を取ってくれない。逃げるとかきちんと向き合うとかの最終決定をするのはあくまで自分自身だ。

 

 

いつから始まっているのかさえもよく分からないほどに早期化と過熱化が進む大学生の就職戦線は、もはや「異状なし」などと言っていられるほどのんびりしたものではなくなってしまった。

エントリーシートには「学生時代に頑張ったこと」の文字が躍っている。

学生時代のすべての活動はこのESの欄を埋めるための行為であるかのようになってしまい、何か実のあるものを頑張らなければいけないといった本末転倒な結果に収斂されていく。

 

何屋さんとして今後のおまんまを食っていくのかを考える時、大それたことを何も残せなかった今までの悲惨な人生の残滓と僕らは向き合わざるを得ない。

「何者でもないからこそ何者にでもなれる」といった万能感を栄養として育った鼻っ柱が悉く打ち砕かれていく現実を、ある種の通過儀礼かの如く見せられる。

 

だけどこの人生の残滓と逃げずに向き合うことで、見える何かを信じてもいいのではないだろうか。

諦めるのは最後までいっぱい頑張ってからにしたい。