名前は、まだない。

you can ( not ) redo.

無題

卒業‪である。

学生生活は一応終わりを迎え、初等教育6年、中等教育6年高等教育4年の足がけ16年にも及ぶ教育が終了した。終了した結果がこのザマである。これが大団円だと言えるのだろうか。決して薔薇色の青春とも言えず、かと言って青の時代だったかと問われてもればそうだとも言えず、何とも名状しがたい期間であった。

とは言え仲良くしてくれた人には感謝だし、これからもよろしくお願いいたしますの気持ちは変わらない。人生の残滓と向き合いながら泥臭く人生取っ組み合っていきましょう。

 

 

4月某日 

ある会社の内定者が自殺した、というニュースが目に入る。THE YELLOW MONKEYSの『JAM』ではないが、「内定者」の「自殺」というセンセーショナルな単語が並ぶ話題を前に僕は何を思えばいいんだろうとなってしまう。

思うことといえば、この情勢の中で恐らく多くの労働者が休業、あるいは解雇の憂き目に遭っている。そんな中自分はホテルで宿泊しながら研修を受けている。今はこのギャップのことばかり考えてしまう。

社会に不安が蔓延し、この先のことも考えられないのにこんなにも楽天的な暮らしで良いのだろうか。ある意味ハゲタカにもなりうるような業界であるが故に、死の商人への道半ば、地獄の一丁目を歩んでるんじゃなかろうかの気持ちになる。

産まれたての小鹿の如き若輩が社会に放り出されて感じるのは、社会の怖さだ。あぁ本当に弱肉強食なんだここは。今までがぬるま湯過ぎたと言えばそれまでなんだが、とはいえ今の課程が終われば(ほぼ自動的に)次の課程が待っていた。けれどもこの次の課程はもう無くて、のんべんたらりと生きるにはあまりに先が見えない。

過ごした思い出のポイントを卑下しすぎるのも良くないが、とはいえ甘く捉えてしまいがちである。そこのバランス感覚は失いたくない。

ここまでは運が良かったが、吹けば飛ぶようなモブキャラにこれから出来ることは、モブなりに力をつけて自分の足で立てるようにする他ない。

 

5月某日

お風呂で髪を洗いながら、ふと英語の4技能について思いを巡らす。

英語はわりかし得意な方だったが、書く(話すも大概だが書くに比べればまだ少しはできた)についてはてんでダメだった。表現が、というより内容が全く思いつかないタイプであった。

 

全ての問題は国語が中心だ、とはるか昔にどなたかの先生に言われた覚えがあるが、全くその通りだなと当時思った記憶がある。「読め」なければ、書けない。だから本質を捉えろ。みたいな話で、解答する上で何が聞かれていているのかが分かっていなければ当たるものも間違えてしまうよ、と。

それから「読む」ために知識的な背景を勉強し、どういう背景があって文が書かれているかを理解したことで一段階くらい成績が上がった。書きながら徐々に思い出してきたが、たぶん中学のときの話だったと思う。国語を勉強したことで連られて数学の成績が上がったのは、きっと「読め」てなかったからなんだろう。

そういうことを、考える。

 

5月某日

出勤が始まる。

ほぼひと月ぶりに電車に乗るので、初日からしっかりSuicaを忘れた。人間は1ヶ月もすると社会の仕組みをこうも簡単に忘れてしまうのかと驚く。

単純に自分の意識の問題を一般化しすぎてる面も否めないが、「あれ、そういえばどうやって電車乗るんだっけ」「あれ、そういえば初対面の人とはどうやって接してどういうこと話せばいいんだよぅ」みたいなのはゾンビのごとく付き纏ってくる。

引きこもりの人が社会に復帰するのが難しいとかいう話もここに繋がっているような気がして、要は社会におけるコードを内面化出来てない/忘れてしまったからなのではないかと思う。

辛うじて3月くらいまでは人と接していたために断片的に「あぁこうすればいいんだった」というような記憶が引き出せるが、家族だけの小さな共和圏内で長く過ごしてしまうと、社会と接続するためのコードが錆び付いてしまう。1歩家から出てしまえば忽ち社会ではあるが、社会と家族との間を取り持つような、そういうコミュニティがあると生きやすさみたいなのはぐんと跳ね上がる気がしてならない。

 

5月某日

同じ部の人が最終出勤日を迎える。

比較的中堅で、知識も豊富な何かと頼れる人が辞めるのは部としても痛手な感はあるが、とはいえ人の人生にとやかく口を出すべきではなく、明日からの生活を善く生きて欲しいと祈るばかりだ。

部内のパワーバランスや得意不得意みたいなのを最後に裏でサラッと個別に教えてもらったがその中で、初期に細々としたことを教えてもらった人が障害者雇用で採用されていることを伝えられる。

「だろうな」という気はしていたが、改めてしっかりと障害者雇用だということを言われると何だかモニョるというか。一方でこの気持ちの源泉は何だろうかという気にもなる。

 

https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/yokota-hiroshi?utm_term=.dr4D8zo2G#.ukXNLm87Z

以前、こういう記事を読んでブクマしてあった。

"障害者に対する愛と正義のエゴイズムを鋭く告発し、それを否定するとによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉だと信じ、且、行動する"

「青い芝の会」という団体の行動綱領からの引用だが、こう、特殊な事情だからといって何かしらの配慮をすること自体に愛はあるかというか。気持ちの源泉はここなような気がしてならない。

 

 

月末はダービーである。翌週からは新馬戦が。

また新たな1年が始まる。先出しだけども、あけましておめでとうございます。