君の名は。
昔から、名前を覚えることは得意なことだった。
例えば電車の車両の名前だったり、国の名前だったり。その名称を覚えること自体は単なる雑学の範疇にとどまるのかもしれないが、それをすることで子供ながらにアイデンティティを見出していた頃があった。
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「お前、名前は?」
「山田です」
「それは知っている、私は君の名前を聞いているんだ」
といって見事にフルネームを言わせるという田中角栄の有名なエピソードがある。彼も名前を覚えるのは得意だった。
就寝前には政官要覧をじっくりと眺め、以て官僚を掌握せしめた人物だ。
人の名前を憶えていることは、憶えられている側の立場からしたらどうなのだろうとこの話から考えたことがあった。
結論としては、そこにはある種の感動と、承認欲求の充足があるのではないかという考えに至った。
個人の経験則でしかない。
名前を呼ばれることにはその関係の中において他者にしっかりと記憶されうる存在であったということに対する感動、それがひいては承認欲求を満たす要因になりうること。
マズローの欲求階層構造においては社会的欲求が満たされた状態とでも言おうか。
角栄はこの承認欲求を利用して、更なる貢献へ(そして昇進へ)とベクトルを向けさせることで官僚を掌握したのではないかとぼんやりと考えたことがある。
そういうことを考えていくうちに、人の名前を憶えておくことの重要性というのをうすぼんやりと実感したのである。
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ふとそんなことを成人式の最中に思い出した。
それだけ。
「俺のこと覚えてる?」って友達が話しかけてきたときに、それを言わなきゃいけない相手のことを考えたときに少し胸が苦しくなった。
不安からくる忘れられてないかの確認は、忘れないでの脅迫に思えた。