名前は、まだない。

you can ( not ) redo.

人生の残滓

f:id:blackrock727:20190607013646j:plain

3期決定おめでたい!!



いつだって頭をよぎるよ。やってもダメかもって。叶わないかもって。こんなに練習して、結果が出なかったらどうしようって。(中略)でも私は、頑張れば何かがあるって信じてる。 

ー『響け! ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』 黄前久美子の科白より

 

『響け! ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』を観た。

まずはちょっとだけ、1月前に観たおぼろげな記憶を基に感想を述べたいと思う。

 

観ていない人もいると思うので簡単な時系列だけ紹介すると、2期終了後の続編である。小笠原晴香部長ら3年生が卒業し、進級した旧1・2年生勢と新しく入ってきた新1年生と共に全国大会金賞を目指している。

 

相変わらず心の抉りあいをよろしくやっているなという感じで、鑑賞しながらゲーゲーと吐いていた。

吹奏楽部という、所属部員自体は多いもののコンクールになればある程度の人数が絞られて脱落者が生産される実力主義な仕組みと、先輩後輩関係を基にしたヒエラルキー構造(これらは吹部に限らずメジャーな運動部全体にも共通するが)とが複雑に絡み合うことで、人間と人間の関係が非常によろしくないことになってしまう。

 

特に新1年生として入ってきた久石奏(低音パート・ユーフォニアム担当)はそこらへんの人間関係を達観しつつ、その実腹の中にはドス黒い澱が溜まっており、黄前久美子以上にドスの効いた呪詛を吐くために、見ているこちらとしては非常に心臓に悪い。彼女のせいで心筋梗塞にでもなったらどうしてくれようか。

 

(以下そこそこネタバレ有?)

 

さて、そんな彼女だが、コンクールメンバーのオーディションで夏紀先輩に忖度をし、実力を十全に発揮しない演奏をしてしまう。

なぜそんなことをしたのか。その原因には、中学生時代に若輩ながら3年生の先輩を押しのけてコンクールメンバーに選ばれたことがあげられている。客観的にみれば、演奏技術においては彼女が上であり、選ばれたのは当然と言えば当然だ。

迎えた市のコンクールでは銀賞(だったはず…おぼろげな記憶…)という残念な結果に終わる。そのせいで(?)、彼女がメンバーに選ばれたことにより3年生の先輩の「思い出作り」ができなかったと周囲の人間が嘆いた。その言葉は呪いとして彼女の心に強く残り続け、結果的に13,4の中学生に周囲の空気を読んで身を引いてしまう忖度癖というか、ゆがんだ精神が育まれた。あれ…なんか某あすか先輩も同じようなこと言ってたな…。

個人的にはここの描き方が「何が正しいのか」より「みんなが納得できるか」がとてもポスト・トゥルース的で非常に良かったと思っている。いつだっていじめはこのポストトゥルースな空気感から始まり、正しさという評価軸がぶち壊れてしまうことで拍車がかかってしまうのだ。

 

だが、実力主義の北宇治高等学校吹奏楽部において、オーディションでの忖度は滝先生着任以降ご法度である。

高校入学と同時に始めた夏紀先輩のユーフォニアムと中学からやっている久石奏のそれを比べたら、長くやっていて且つとりあえずメンバー選出経験のある久石に一日の長があるのは誰しもわかっているはず。

もちろん夏紀先輩は昨年も同様の経験(黄前久美子による下級生からの突き上げ)があっただけに今年は必死であり、自分の実力で勝ち取りたい。

しかしそこを遠慮されて譲られて(しかも目の前で堂々と遠慮されているのを披歴されて)勝ち取った椅子に、果たして価値を見出せるかといったら、答えはNOであろう。

 

そこで久石奏は問う。「何のために頑張るんですか」、そもそも「頑張るってなんなんですか」と。

 

自身のこれまでの経験と重ねながら、また同じ低音パートでチューバ担当の加藤葉月がコンクールレベルには到達しえないと薄々分かっていながらそれでも日々コンクールに向けて必死に練習する姿とを重ねながら、それでも頑張る理由とは何かを黄前久美子に問う。

 

<頑張るとは/何のために頑張るのか>

 そこで問われた黄前は冒頭の科白を発する。

すごい。すごいね黒沢ともよさんは。さすが演劇畑の子役上がりというか。2期のあすか先輩とのやり取りの時も鬼気迫る演技であったが、それにも引けを取らないというか、むしろ様々な人間関係の濁流に翻弄された経験を持って進級し、さらに後輩の世話係になって幾分か責任が増しただけに、訴えかける語気がこれまで以上に強まっている。そこを演技の内にひじり出せる力がある声優さんであることを今回強く強く実感した。今までも実感していたが…。

 

 

 ここまでは作品の振り返りとちょっとした感想だったが、ここからが本題である。

この久石奏が投げかけた「頑張るとは何か」という問いは、就職戦線にいる/いた我々大学生にも深く深く突き刺さる。

 

 

 

 その問いに答えるとするならば、ひとつにこれは「逃げずに向き合う」ことではないかと思う。

もちろん、個々人の目標に向かって日々研鑽を積むような、ある意味清らかとされるような努力を頑張りと呼ぶこともあろう。がしかし、人生そんな清らかさだけで出来ているわけはない。もっとこうドロドロに煮詰まったような、青春と泥だらけになってまで取っ組み合いっこをして勝ち得た何か、得られなかった何か、あるいはそれらの過程すべてを「頑張り」と呼んでもよいのではないだろうか。 

あくまでこれは自分としての「頑張りとは/何のために頑張るのか」の答えである。みんな頑張ってるんだからお前も頑張れみたいな、日本古来の耐乏の美徳に高尚な価値を見出したいわけではない。

 

星野道夫は自身の著書の中でこう話している。

夢にはいつか終わりが来る。
夢の途中で倒れたとしても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまったかけがえのないその時間である。

ーMichio's Nothern Dreams<1> オーロラの彼方へ から

取っ組み合って、向かい合ってたどり着いた結果何も残らなかったとしても、そこで過ごしてきた時間と記憶だけは残る。

 

久石奏においては、成果とともにその過程までもが無慈悲に否定されてしまったが故に、頑張ることの意義を見失っていた。

(余談になるが、この間のシンデレラガールズ総選挙で第3位に選ばれた夢見りあむは「チョロいなオタク!! 僕頑張ったか!? 努力なんてムダムダの無じゃん!? アイドルってなんなんだよぅ!!」とのコメントを残している。)

 「逃げても良い」という言説が人口に膾炙して久しいが、外野からの言葉は所詮外野でしかなく、誰も責任を取ってくれない。逃げるとかきちんと向き合うとかの最終決定をするのはあくまで自分自身だ。

 

 

いつから始まっているのかさえもよく分からないほどに早期化と過熱化が進む大学生の就職戦線は、もはや「異状なし」などと言っていられるほどのんびりしたものではなくなってしまった。

エントリーシートには「学生時代に頑張ったこと」の文字が躍っている。

学生時代のすべての活動はこのESの欄を埋めるための行為であるかのようになってしまい、何か実のあるものを頑張らなければいけないといった本末転倒な結果に収斂されていく。

 

何屋さんとして今後のおまんまを食っていくのかを考える時、大それたことを何も残せなかった今までの悲惨な人生の残滓と僕らは向き合わざるを得ない。

「何者でもないからこそ何者にでもなれる」といった万能感を栄養として育った鼻っ柱が悉く打ち砕かれていく現実を、ある種の通過儀礼かの如く見せられる。

 

だけどこの人生の残滓と逃げずに向き合うことで、見える何かを信じてもいいのではないだろうか。

諦めるのは最後までいっぱい頑張ってからにしたい。

デカルコマニーという馬がいた。

f:id:blackrock727:20190403221814p:plain

2018年4月14日 中山競馬場第5R パドックにて

久しぶりのパドック見学だった。

 

 

去る2018年4月14日。中山グランドジャンプの開催日であったこの日、僕はこのレース3連覇が懸かるオジュウチョウサンの撮影のため中山競馬場を訪れていた。

 

撮影の練習がてら、パドックに足を運ぶ。

 

馬たちが周回する。人々は彼らの筋肉のつき方や歩様、そして気分がどうなのかを見定める。馬券を買うのであればこれらの項目を見るのであろうが、撮影をしていた僕は主に馬の目を(ファインダー越しに)見ていた。

 

その中にひときわ目を引く馬がいた。デカルコマニーという馬である。

とにかく、とにかく優しい目をしていた。

競走なんて向いていなさそうな、でも人を乗せて走ることは嫌じゃなさそうな、そういう馬ではないだろうか。目は口程に物を言うではないが、ファインダー越しからはそう感じた。

 

 

彼が出走した第5R 3歳未勝利戦は16頭中13着でゴール。ダート1200mという、比較的力のいる競馬が求められるのに対し、彼の身躯、特にトモが厚くなく筋骨隆々といったほどでもないために最後の直線で力のある馬に競り負けてしまうのは想像に難くない。

闘志みなぎる歴戦の猛者たちが鎬を削るスプリント勝負の世界において、ひたすらに優しい目をした馬が勝機を見出すのは難しいのである。

当該レースで勝利を収めた「ランパク」という芦毛の馬は、周回中に(ナポレオンの絵のように)後足だけで立ち上がってしまうほど、気性の荒さが目立った馬だった。

 

 

「やっぱりな。」という感じでレース観戦を終える。  その後も第6、7とレースを観戦。メインの重賞もオジュウチョウサン号が優勝し中山グランドジャンプをレースレコードでの3連覇が達成された。

 

その後も何事もなく、また日常の生活へと戻っていった。

ただある時週末の楽しみである重賞予想のために競馬を見ていると、ふと、あの馬のことが思い出されるのである。

要するに、惚れていたのだ。あの目に。

レースに勝てなくても、ひたすらに優しい目をしたアイツのことが心のどこかに引っかかってしまう。怪我せず走り切ったんだろうか。やっぱり着順は低いままなのだろうか。そういうことが気になってしまったが最後、彼のことを応援したくなってしまった。

 

2018年の夏以降障害競走に転向するまで、ダート戦線では2ケタ着ばかりであり成績は思うように振るわなかった。ただ秋競馬が始まって以降、障害競走では最高2着と徐々にではあるが成績が出始めていた。

障害競走は長距離戦であり、デカルコマニーの体型からも向いていると思われるだけにこれからの活躍に期待していた部分があった。

 

ところが2月28日。突然の登録抹消の知らせがあった。地方競馬(盛岡)への転籍(?)である。

詳細なところは不明だが、中央の芝・ダートには別れを告げ、地方に拠点を移すらしい。

 

たった1度の出会いだった。

僕にサラブレッドの美しさを教えてくれたのは、かの有名なディープインパクト号であった。だが馬自体に対する愛らしさを思い起こさせてくれたのは、遂に未勝利戦も勝てなかったデカルコマニーという馬であった。

 

誰の記憶にももしかしたら残らないかもしれないが、僕はこれからもしっかりと覚えていることをここに記録する。

 

 

 

書くことの意義

何でこうやって書くのか、言葉を残すのか、よく分からなくなった時期があった。

 

大したことを書ける訳でもない。そして影響力がある訳でもないから書いたところで色んな人に読んで貰える訳でもない(数少ない読者である画面の向こうのあなた、ありがとう)。

 

そもそも文章構成下手くそマンで、オチのある話とか書けない。面白い体験もない。

ないない尽くしで八方塞がりになって、こりゃもうどうすりゃいいんだと、変に悩んでいた。

 

そんな時にたまたま読んだのが『王とサーカス』という本だった。作者は米澤穂信さん。ミステリ作家で、アニメにもなった『氷菓』やドラマ化もした『満願』など数々の有名作を著している。

 

簡単なあらすじ。

主人公は大刀洗万智という、新聞社からフリーライターに転向した女性。月刊雑誌の取材の前乗りでネパールにいた所、国王が殺害されてしまう。当該事件について急遽取材を敢行するも、極秘でインタビューした軍幹部が何者かによって殺害される。遺体の背中には刃物で刻まれたと見られる文字が。何故彼は殺されねばならなかったのか。そして取材の末に彼女が辿り着いた悲しい真実とは…。

 

こんなんだったかな。

 

その大刀洗さんも、取材しながら自分が書く意義みたいなものはあるんだろうかと悩むわけですよ。事実を伝えるだけならCNNのラジオの方が早く伝わるし、そもそもこれを書いたところで読者は興味を持って読んでくれるのだろうかっていうのもある。

取材中インタビューした軍幹部にも、「この国で起きた悲しみがお前達の国で娯楽として消費されるのは真っ平御免だ。この国をサーカスにするつもりは二度とない。」(うろ覚え)って言われる始末。

 

そんなんで落ち込んでた時に泊まってたロッジにいる日本人の坊さんに、釈迦の話も交えてちょっと諭されるの。それがまたちょっといい話。

 

お釈迦様は悟りを開いたはいいけれど、それを広めようとはしなかった。もしかしたら自分が説いた教えが曲解されて自分の意図とは裏腹な結果が現れるかもしれないし、それを訂正する苦労を背負いたくないと。そこにブラフマー(梵天)が現れて、必死に衆生へ説くように訴える。釈迦も渋々この訴えに応え、衆生に説いて回った。

坊さん曰く、現在の仏教を振り返ると初期仏教とはだいぶ違っているらしい。釈迦にすれば、ほらみたことかと言いたくなるような話である。

だけどその坊さんは、梵天の説得は無駄ではなかった、と。そう考えるべきではないかと言う。

我々は完成を求めている。詩であれ絵であれ教えであれ、究極の完成が無い以上そのためにピースを当てこみ続けるべきであり、釈迦の教えは宗教哲学における完成に大きく近づくようなピースを嵌めた。それ故に梵天の説得は無駄ではなかったのではないかと解釈する。

 

僕もここ読んでめちゃくちゃ感心した。やっぱ坊さんはすごい。

自分が書くことに何の意義があるのか分からないけど、書くことで何かのピースをはめ込んでいる。多様性を持たせるということとはまた少し違うんだろうけど。

 

この話を読んで以来、また少し書こうかなという気になってきた。読んでくれるかわからないけど書くことで、何かしらの真理の一側面を埋める働きが出来たのであればそれはそれでいいなという気になれた。

 

何か書くこと、描くこと、そういうことでちょっとモヤっとしてる人がいたら(中々いないと思いますが)読んでみることをオススメします。話自体も伏線に富んでて面白いです。これを読んだら主人公である大刀洗のもう少し若い時の話『さよなら妖精』や新聞記者時代の話『真実の10メートル手前』を読んでみてください。ゆくゆくは『氷菓』や『愚者のエンドロール』など〈古典部〉シリーズを読んでくれると嬉しいです。

ジャパンCに寄せて

自分がダービーの18頭立ての中には入れないと自覚するまでが人生における1R、芝1800m戦だとするならば

 

それを自覚した上で尚それでも生きてゆかねばならないと決め込んでから、人生における2R、20歳以上未勝利戦が始まるのではないだろうか。

 

そして、これらを意にも介さず易々と追い越した者達が集う東京競馬場第11競走。そこで走る姿にロマンを感じざるを得ないのはどうしてだろう。

 

たったの2分23秒で僕らの生涯年収を優に超える賞金を得られる馬たちに、賭けるは僕らの思いとお金。

あなたの、そして私の夢が走る宝塚記念ではないが、これで得られる賞金と名誉があるからこそ、21歳未勝利の僕は浪漫を感じてしまうのだ。

 

ジャパンカップ 予想〉

サトノダイヤモンド

○アーモンドアイ

▲キセキ

▲スワーヴリチャード

△ウインテンダネス

△サンダリングブルー

 

当たるといいね。それでは。

喫茶店のマナーとは。

<喫茶店が抱える問題>

茶店に於いては、珈琲もしくは紅茶といった飲み物に多くの利幅が設けられており、ほとんどの店で飲み物の注文を必須としていると思われる。食事というのはあくまでサブ的なモノであり、そこまで多くの利幅が設けられているわけではない。

 

必然、食事の注文だけというのは断られるケースもしばしばある。遭遇したことがある人もいるかもしれない。特に飲みたいものはないが、小腹は空いた。お冷だけもらって、軽食だけ頼もうか、みたいな。

しかし店にとってその行動は非常に厳しいものであり、骨折り損のくたびれ儲けといったところだ。

僕が働く喫茶店にも、たまにこういう人は来る。断りを伝えると驚いたような顔をする人もちらほらだ。 内心「育ちが悪いなこの人」と思ってしまう。よくないよくない。

 

ここでさらにもう一つ、深刻な問題が浮上してくる。長時間居座る人だ。飲み物を注文してもらったところで、それ一つで何時間も粘られるのもこれまた多くの喫茶店が抱える問題の一つと言っても過言ではない。

 

 

<喫茶店員が思う喫茶店のマナー>

www.nikkei.com

基本的には各店の判断に任せるが、おおよそ1時間半~2時間程度の利用ならば「気兼ねなく」粘れるだろうといった書かれ方をしている。

ただ一喫茶店員の感想としては、腹立たしい。2時間も居座られたらさすがに後ろから蹴飛ばしたくもなる。個人的な体感限度としては【30~40分】。これ以上利用するならば追加のドリンクを注文するのが居座る人間として最低限求められる倫理観ではないかと日々思う。

少し経済学的な話をするならば、追加注文されずに居座り続けられることは店にとっては機会損失であり、さらには回転率の低下から利益の減少、最終的には赤字というスパイラルに陥りかねない。

 

飲み物一つで粘るのが大目に見て許されるのは、きっと高校生までだ。社会人になってまでそういうことをしている人を見るのは見苦しい。もう立派な大人なのにそういう価値観・倫理観を得ることができなかった哀れな人、としか僕は思えない。

 

何につけてもマナーマナーと押し付けたくはないが、それでも居直られたらこっちから働きかけざるを得なくなってしまう。

上客として気分よく過ごしたいと思うのであれば、(もちろん店員としてはすべての客に対して貴賤なく接するつもりではあるが)そもそも自分が上客として扱ってもらえるような行動をしているかを振り返ってみてほしいと思う。

たかが店員のくせに何様だと思うのはもちろんだ。だがこんなしょーもないことで剣呑な雰囲気になって居心地悪く過ごすのはもっとしょーもない。

 

いやはや、今日も今日とてひどい有様だったな。

 

おわり。

夏の災厄

向精神薬とか飲んでたりする?」

 

およそ全うな人間ならば投げかけるはずもない言葉を平気で投げかけてきた彼に対して心から驚いてしまったし、同時にそんなことを言われてとても悲しくなった。

 

 

-------------------

 

◆一言あればすべて変わると思ってる。でもできない。

 

社会に出て人間関係に困ったことがない人はいないと思うが、例に漏れず僕もまたバイト先のある男性との関係にほとほと困り果てている。

要するに、そりが合わないのだ。

 

彼はとてもプライドが高いのか何なのかよく分からないが、自分が決めたテリトリーを侵されると少し腹を立てた様子でこちらを見てくる。そのくせ少し遠回しに指示を出してくる。ちょっと面倒くさいやつである。

僕はミャンマーの地雷原を歩かされる子供のごとく、常に怯えながら何とか地雷を踏まないように探り探り、あっぷあっぷになりながらシフト被りの1時間半を過ごす。

 

僕が働く喫茶店は、店舗構造の都合上洗い場とコンロの位置が非常に近く、珈琲を作る作業と洗い物の作業を別々の人が担当するということが少し難しかったりする。

離れた位置にトースターと製氷機があるため、午後シフトの人間は必然的にパン作りやアイス類のドリンクの提供がメインになってしまう。

 

そして事の発端はまさに午後シフトに入った時だった。

 

彼「ブレンドと継ぎ玉(継ぎ玉とは玉子トースト用に乗せるように作るゆで卵とマヨネーズを和えたもの)が少ないんだよね。(だからブレンドの粉を取ってきて継ぎ玉を作ってよ)」

僕「そうなんですね(1時までは持ちそうだし彼が休憩入ってから作ればいいや)」

 

という会話。明らかにどちらも一言足らない。これに関しては僕にも悪い所があったと思う。

 

そんな感じなので僕はその後注文の入ったアイスコーヒーの提供やパン作りをしていたのだが、痺れを切らしたのか、どうしてさっき言ったのに言われたことをやらないのかと責めてきた。おぉ怖い怖い。

 

こういうタイプは言い返すと面倒くさい、否、もう話すのも面倒なので話を聞き流しながらやることを済ませていく。

 

というか作って欲しいなら作って欲しいなりにもう一言欲しいし、何ならゆで卵の入った雪平を、茹でた後に僕から離れたコンロの近くに持っていかないで僕の近くにある小さな手洗い場に氷で〆たまま置いておいて欲しい。そういうとこだぞ、マジで。

 

そしてまた卵の殻が剥きづらいったらありゃしない。僕より長く働いているのにどうして卵の一つも上手に茹でられないんだ。精神的に向上心のない奴はバカだって夏目大先生も言ってたじゃないか。

 

 1時過ぎ、彼が30分の休憩に入る。彼には一つ特性があって、皿などの洗い物を溜めたまま休憩に入る。そのため休憩後は自分が真っ先に溜まりにたまった洗い物を洗い排水溝をきれいにして少なくなったまま補充もしない(させてくれない、がどちらかというと正しい。僕が触ろうものなら「珈琲は俺がやるから」と言う。ばかやろう少なくなったままだったら煮詰まってまずくなるだろ。)珈琲を補充して…とあらゆるものの補充作業や接客、パン作り、トースター掃除を行う。

トースターは早めに下のトレイを掃除しないと焦げ付いて締めの作業の時に洗いが大変になるので、なるべくこのタイミングで行いたいと思っている。これもまた「別に今じゃなくていいでしょ、早く元に戻して。」って怒られたけど。

 

あくまで主観的な話だからどうしても誇張していると思われそうだが、毎回彼とシフトに入るたびにこのような作業を行っているのである。

 

 

◆サービス業とは?

珈琲1杯220円の店にサービスを期待し過ぎるのも酷なものだが、それでも客と店という関係性の中で最低限度のサービス精神みたいなのはあってしかるべきだと考える。

 

最低限カウンターの上に置かれた皿は見えないようにどかす。その上水滴があったら台ふきで拭く。客が帰ったら使ったテーブルを綺麗に拭いて次の人がすぐ座れるようにする。などなど、一つ一つはそこまでの手間ではないし、それをやっているだけでも来てくれる客的には、少なくともマイナスな印象にはならないはずだと思っている。

 

しかし彼は恐らくサービス精神を持ち合わせておらず、カウンターに皿がたまっていようが、水に濡れていようがお構いなしであり、テーブルを拭く役割を担っているであろう従業員の立場を忘れたのか、客が自主的に拭こうとしたらそれを止めることもなくやらせてしまう。確実に接客サービス業に向いていない。

客は金を払って注文した商品を受け取る権利を得る。従業員は受け取った代金によって生じた商品の引き渡し義務を履行する。それが済めばそれまでであり、そこから先は自分の範疇ではないと考えてしまうのだろう。

 

ここまでいろいろ書いていることの問題の根幹は、サービス業における彼と僕との立ち位置の違いが生む軋轢なのだ。

 

 彼の世界ではきっと彼が世界のすべてで、自分さえよければ他が汚かろうが珈琲がまずかろうがどうでもよく(現に彼は洗い物の度にゴム手袋をつけて洗う潔癖症(笑))、給料以上の動きは極力したくないため、後から入ってきた(立場の弱い)人を顎で使うことで何とかシフトの時間を乗り切ろうとしている。

 

逆に僕は、店をどう回すか、入ってきた客がまず目にするカウンターや使う食器をなるべく綺麗にしておくとか、なるべく美味しい珈琲・トーストを作り、来てくれた客が店を出るまで印象を落とすことなく過ごせるかということであり、いわば「客ファースト」、来る客が全てであり、そのために自分はどう動くかということに全てが収斂されている。

 

事の発端である補充の問題も、ストックがあるなら客のフローが落ち着いた時にやればよいため大した問題ではなく、忙しい12時台に処理しようとする問題ではない(と僕は思っている)。

 

だから彼のテリトリー内で彼の意図したとおりに動いてくれない僕の存在は非常に目障りで、目の上のたん瘤なわけだ。

それにもし動いてくれないのならば最初からもっと明確に指示を出してくれればいいと思う。そして「どうして○○をやってくれないの」という言い方にも彼のサービス精神の無さが出ている。もしやってほしいなら(すごい上から目線になってしまったけど)「××な事情なので○○してもらってもいいですか」という、そういう頼みの表現一つで「それじゃあすぐやらないとな」というインセンティブが生まれるはずだ。

 

同じバイトにいる院生の女の子やパートのおばちゃんとはこういうコミュニケーションが普通に取れる。そしてこちらも何の不満もなく動けるし(向こうがどう思っているのかは分からないけど)そんなにバチバチとした雰囲気で店を切り盛りする必要もなくなると思うのだがどうだろうか。

 

 

◆そして冒頭へ…。

彼にとって理解不能な僕の動きが、きっとある疑問へとたどり着いたのだろう。そして冒頭の問いが発された。

向精神薬について僕も詳しい知識がないのであまり正確なことが言えないが、よく聞く薬の名前としては「デパス」や「コンサータ」といった薬だろう。聞いたことがある人、あるいは実際服用している人もいるかもしれない。

そして彼が念頭において発した向精神薬は、恐らく「コンサータ」の方だろう。主にADHD(注意欠陥・多動性障害)の治療のために使われる薬だ。

 

大人のためのADHDサイト(ADHDとは?|どんな症状なの?|大人のためのADHDサイト)によれば、「多動性」「衝動性」「不注意」の3つに症状が分類されており、彼は僕の行動のうち、「仕事のケアレスミスをしてしまう」「興味のあることには集中しすぎてしまい、切り替えが難しい」「仕事や作業を順序立てて行うことが苦手」といった症状に当てはまると思ってそういう発言をしたのだろう。もしかしたら本当に自分にそういう症状があって、治療をしなければならないという可能性も出てくる。しかし今まで生きてきて親類縁者からもそのような症状の疑いがあると言われたことは無く、ましてやそのような兆候から精神科などの然る医療機関で診察を受けた覚えもない。もしかしたらを言ったらキリがないが、その時急に発症をしたのかもしれない。

 

だが、ここまで何も言われずに育ってきて、いきなりそんな症状が発現するとも思えない。

それなのに冒頭のようなことを言われたら、人は誰だって悲しい気持ちになる。少なくともいい気分になる人はいないだろう。それに、言い方も問題があると思う。お得意の少し遠回しな表現はどうしたものだろうか。もし症状があることを知らなくてその人に聞くにしたって「向精神薬飲んでたりする?」はないでしょう。僕もうまく言えるかわからないし、恐らく言わないとも思うが、もし言うとしても「注意散漫だねって言われたことあったりする?」(考えてこれもどうかと思うが)とか、何かもう少しオブラートに包んだ言い方ができたはずだと思う。

デリカシーがないというか、とにかく残念だったし、悲しい気持ちになった。

 

◆おわりに

別に何か結論を出したいとか、そういうわけでもない。ただこういうことがあって、こういう気持ちになりましたという主観的な話。読んでくれて、これは明らかに僕の方が間違ってるとか、なんか言ってること矛盾してない? とかあると思う。

 

中学の時の部活の顧問が、「誰にも何も言ってもらえなくなったら、その時が人としての終わりだからな」と声をかけてきたことがある。どのタイミングでその人が言ったのかは忘れてしまったが、その言葉だけははっきりと覚えている。

客がいる前で言い争いになるのは面倒くさいし、何より客の立場からすればそんなしょうもない茶番を見せられながら飲む珈琲は絶対に美味しくない。もしかしたら2度と来たくないと思われるかもしれない。

だからその場では言えない。言いたいけど。でもこの1時間半に起こった出来事で、彼が社会でうまくやっていくことができなそうだなとちょっと思った。(そんなことはないんだと思う。きっとどこかでやっていけるはず。)

それに「言い方気を付けた方がいいよ」とか、「こうしたら動いてもらえるよ」とか何かしらのことを言われてこなかったのかもしれないと思った。あるいは自己反省して気づくとか。

何かしらを言ってもらえるうちが華ですな。お互い気をつけましょうね。

 

おわり。

 

 

 

ネット時代のひょっこりひょうたん島とは。

僕の知っている方の名前が、電波や電子、紙といった多様なメディアで放映・掲載されていた。

 

総務省の情報通信白書によれば、スマートフォンの普及率は56.8%、モバイル端末全体でいえば83.6%(いずれも2016年度)と、ほぼ国民全体が何らかのモバイル端末を保有しているとのことである。その気にさえなれば、調べようと思ったことを検索バーへ打ち込むことで、知りたい情報を調べ上げることが極めて容易になった世界に今僕らは暮らしているのだ。

 

それは僕らの生活を大いに便利にした一方で、ジョージ・オーウェルの『1984年』のような、監視社会、それも相互に監視しあえるような社会を生み出してしまったともいえる。

そんな社会の中で、自分の名前が大きく社会へと知られるようになった時、僕らはどうしたらよいのだろうか。

 

 

井上ひさしは『ひょっこりひょうたん島』や『吉里吉里人』で独立国家としてのユートピアを模索し続けた作家である。特に、『ひょっこりひょうたん島』は『吉里吉里人』に比べ、よりユートピア国家としての側面が強く描写されている。そのネーションを構成するのはドン・カバチョ(政治家)、サンデー先生(教諭?)とその教え子たち5人、トラヒゲ(海賊)、マシンガン・ダンディ(マフィア)、ムマモメム(医師)など、バックボーンが様々なキャラクターたちだ。

出自も経歴もバラバラな彼らだが、ひょうたん島を中心に起こる様々な出来事を乗り越え関係を深め、遂に象徴的なエンディングを迎えることとなる。紆余曲折あってひょっこりひょうたん島は国連へ加盟するチャンスを得るが、結局それを断り、独立した共同体として漂流を続ける道を選択するというものだ。

 

このひょっこりひょうたん島五族協和的な、ならず者だろうが何だろうが、すべてを受け入れる寛容さを持ち合わせたユートピア国家共同体であることは間違いないだろう。ただ、井上が物語の中で作り上げたこの共同体を、SF的想像力として僕らは捨象しても良いのだろうか。

 

その気になれば手元の端末で様々に知ることができるようになった時代。僕らの時代の『ひょっこりひょうたん島』はどこにあるのかを考えたい。

たとえば何らかの理由により名を残す形で社会からドロップアウトした時、ネット時代の今、ひょっこりひょうたん島のような逃げポイントはなかなか見つからない。

今は、この国を出て行くことが『ひょっこりひょうたん島』への最善の近道なのではないかと思う。

 みんなはどうでしょうか。

 

P.S.

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや(室生犀星