名前は、まだない。

you can ( not ) redo.

ネット時代のひょっこりひょうたん島とは。

僕の知っている方の名前が、電波や電子、紙といった多様なメディアで放映・掲載されていた。

 

総務省の情報通信白書によれば、スマートフォンの普及率は56.8%、モバイル端末全体でいえば83.6%(いずれも2016年度)と、ほぼ国民全体が何らかのモバイル端末を保有しているとのことである。その気にさえなれば、調べようと思ったことを検索バーへ打ち込むことで、知りたい情報を調べ上げることが極めて容易になった世界に今僕らは暮らしているのだ。

 

それは僕らの生活を大いに便利にした一方で、ジョージ・オーウェルの『1984年』のような、監視社会、それも相互に監視しあえるような社会を生み出してしまったともいえる。

そんな社会の中で、自分の名前が大きく社会へと知られるようになった時、僕らはどうしたらよいのだろうか。

 

 

井上ひさしは『ひょっこりひょうたん島』や『吉里吉里人』で独立国家としてのユートピアを模索し続けた作家である。特に、『ひょっこりひょうたん島』は『吉里吉里人』に比べ、よりユートピア国家としての側面が強く描写されている。そのネーションを構成するのはドン・カバチョ(政治家)、サンデー先生(教諭?)とその教え子たち5人、トラヒゲ(海賊)、マシンガン・ダンディ(マフィア)、ムマモメム(医師)など、バックボーンが様々なキャラクターたちだ。

出自も経歴もバラバラな彼らだが、ひょうたん島を中心に起こる様々な出来事を乗り越え関係を深め、遂に象徴的なエンディングを迎えることとなる。紆余曲折あってひょっこりひょうたん島は国連へ加盟するチャンスを得るが、結局それを断り、独立した共同体として漂流を続ける道を選択するというものだ。

 

このひょっこりひょうたん島五族協和的な、ならず者だろうが何だろうが、すべてを受け入れる寛容さを持ち合わせたユートピア国家共同体であることは間違いないだろう。ただ、井上が物語の中で作り上げたこの共同体を、SF的想像力として僕らは捨象しても良いのだろうか。

 

その気になれば手元の端末で様々に知ることができるようになった時代。僕らの時代の『ひょっこりひょうたん島』はどこにあるのかを考えたい。

たとえば何らかの理由により名を残す形で社会からドロップアウトした時、ネット時代の今、ひょっこりひょうたん島のような逃げポイントはなかなか見つからない。

今は、この国を出て行くことが『ひょっこりひょうたん島』への最善の近道なのではないかと思う。

 みんなはどうでしょうか。

 

P.S.

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや(室生犀星